裁判員の心のケア

裁判員の心のケア

2010年11月27日 

2010年10月に東京地裁で開かれた裁判員裁判で、2009年8月、東京都港区で発生した耳かき店の女性店員とその祖母を店員の自宅で刺すなどして殺害した被告人に対し無期懲役の判決が下りました。

検察の求刑は、被告人を死刑にすることを求めるもので、2009年に裁判員制度が始まって以来はじめての死刑の求刑でした。

被告人は、事実を認めていたため一般市民から選ばれた裁判員は量刑を決めることが主な役割となりました。

この判決に関して、裁判員の心のケアについて触れている新聞の社説がいくつかあり、中国新聞の社説では、元東京高裁総括判事の原田国男(慶応大学法科大学院客員教授(刑事法)の話として、「日常生活で裁判との接点が少ない裁判員ならば、精神的負担は計り知れない。心のケアが重要になってくる」(中国新聞社説「極刑、裁判員に負担 心のケアが重要課題」(2010年10月25日付)と語っています。

実は裁判員を務めた方の心のケアという問題提起は、裁判員制度を制度として導入することが提言された頃からありました。

裁判員制度は、1999年に設置された司法制度改革審議会によって、2001年6月にまとめられた最終意見書の中の一つです。

翌年の2002年10月号の法学セミナーに次のような記事があります。

「犯罪と縁がないものにとって犯罪者(嫌疑のある人)は別世界の人に感じる」。しかし、実際に裁判で被告人を見ると、「当然に同じ世界の人であることに衝撃を受ける。そして、裁判員になると、その人の人生を、文字通り左右する判断を下さなければならない。その任の重大性は想像に余りあるもので生涯忘れることがないと思う。《中略》それは被告人が自分と同じ世界に住む人間であり、人が人を裁く重みである。それ故に裁判員を終えた人に何らかの心のケアが必要ではないだろうか」(鈴木晃一「模擬裁判から制度づくりへ」法学セミナー2002年10月号)と述べられています。

おそらく裁判員制度において裁判員の心のケアについて公の刊行物で触れた記事は、これが初めてだと思います。

同じく市民が参加する制度を持つアメリカでは、陪審員のメンタルケアが社会問題となっていますが、陪審員は有罪か無罪かを判断するだけにとどまりますが、裁判員の場合は量刑まで関与するので、陪審員制度と大きく異なる点を持っています。

私は今、新たな危惧を抱いています。それは、裁判員裁判の判決について、インターネット等で批評されることです。

判決を批評することは重要ですが過度になりすぎると、裁判員を務めた方の負担になるのではないかと感じています。真剣に議論をして得た結論ということは外から見ていてもわかります。悩み苦しんだことと思います。その結論(判決)に批評を超えて過度に揶揄することは結論を否定することであり、望ましいことではないように感じます。

前掲の記事にもありましたが、実際の裁判官でも自身が担当した裁判について思い入れがあり、いつまでも気になるようです。一般市民である裁判員の場合、生涯に一度かかわることがあるかどうかという点を考慮すると、自身が担当した事件への思い入れは相当なものになると思います。

そして、2010年11月には横浜地裁で初の死刑判決が下り、そして、仙台地裁で裁判員裁判でも死刑判決が下りました。

日本では、殺人罪について「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する」と定めており、裁判では5年以上の懲役刑か無期または死刑の選択肢しかありません。

こうした刑罰の選択肢が狭く、また、無期刑については「無期刑については10年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」(刑法28条)と定めており、法律上は10年を経てば仮釈放ができることになっており、死刑という刑罰との開きが余りに大きすぎるように感じます。

なお、裁判員の心のケアについて裁判所は、メンタルヘルスサポート窓口を設けて5回まで無料で応じる処置をとっています。ただ、この点についても回数制限を設けるのはおかしいと批判があります。私も杓子定規のような回数制限ではなく、手厚くケアをして行く必要があると感じます。それは、裁判員が、裁判の過程において悲惨な現場写真や遺体の写真を見ることになり、そして、被告人の人生を左右する判断を迫られ、また、遺族からも厳しい処罰を求められ、社会からも注目されるというすべてが通常の生活環境では体験しないことばかりで、精神的負担は大変に大きいものと思います。

改めて、裁判員の心のケアと量刑・刑罰について、見直しをする議論をして結論を出す必要があるのではないでしょうか。

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